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「いだてん」柔道創始者で日本オリンピックの父といわれる嘉納治五郎とはどんな人?


大河ドラマ「いだてん」で役所広司演じる嘉納治五郎とはどんな人だったのでしょうか?
柔道の創始者であり、金栗四三をオリンピックに導いた人物でもあります。
その嘉納治五郎の人生を見てみましょう。


柔道の創始者、嘉納治五郎



嘉納治五郎は現在の兵庫県神戸市で酒造・廻船業を営む豪商の家に生まれました

1875(明治8)年、14歳で開成学校(現在の東京大学)に進学、成績は優秀でしたが、体が小さくいじめられることも多かったため、負けん気の強い嘉納は、非力な者でも力の強いものに勝てる柔術を学ぼうと考えます。

1877年、天神真楊流柔術の道場へ入門しみるみる上達。

1881年、開成学校を卒業後、起倒流いう柔術を学んで柔二流派の技術を習得。

それまで口伝だった技を研究し、技術体系を整理して「柔道」を確立しました。

1882年、下谷北稲荷町(現、渡欧京都台東区東上野)に柔道館「講道館」を設立しました


教育や柔道に尽力



嘉納はスポーツだけでなく教育にも熱心でした。

1882年、22歳の時神田に英語を学ぶ「弘文館」を創立、1886年学習院教授兼教頭となり、1891年から第五高等学校(現、熊本大学)校長兼文部参事官を務めました。

1893年、東京高等師範学校(現、筑波大学)の校長となり、さまざまなスポーツを積極的に導入。特に水泳や長距離走を重視しました。

同年文京区小石川に講道館を新築し、女子の門下生を受け入れました。

日本で初めて清(現、中国)からの留学生を積極的に受け入れ、学問に加えてスポーツも学ばせました。

1902年、神田に「弘文学院」を設立。

中国の作家魯迅もここで学びました。


日本のオリンピックの父、嘉納治五郎



1909(明治42)年、嘉納は、国際オリンピック委員会(IOC)会長のクーベルタンの依頼によりアジアで初のIOC委員となりました。

1911年、大日本体育協会を設立し、会長となってオリンピック予選会を開き金栗四三と三島弥彦を選びました。

1912(大正1)年嘉納が団長となり、選手2名、役員2名という少人数でストックホルムオリンピックに参加。

競技はよい結果を残すことはできませんでしたが、日本がオリンピックに初参加したことに大きな意義がありました。


東京オリンピック大会招致に成功



1931(昭和6)年、嘉納のオリンピック参加への熱意が関係者を動かし、東京市会(現、東京都議会)でオリンピック大会開催建議が可決されると、オリンピックを東京に承知する活動を始めます。

1932年のロサンゼルス大会に出席した嘉納は同時に開かれたIOC総会で日本のオリンピック参加を訴えました。

1936年、嘉納はベルリンで行われたIOC総会でオリンピックをアジアで開催することが世界のスポーツ、文化の発展につながると主張しました。

その結果、世界各国の賛同を得て1940年に東京オリンピックを開催することが決定しました。

嘉納はIOC委員に日本支持に対するお礼と今後の協力を伝えるため各国を回りました。そして、その帰途船上で肺炎のため急逝してしまいました。

その2ヶ月後、日中戦争が激化し、国内外の情勢が悪化すると翌年、日本はオリンピックを返上することになりました


1964年東京オリンピック開催



その後時は流れ、1964年のオリンピック招致活動の際には、IOC委員を29年間務めた嘉納治五郎の思いを知っていIOC会長のブランテージをはじめ、嘉納を慕う多くの委員達が後押し、東京開催が実現しました。