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「いだてん」主人公金栗四三ってどんな人?マラソンの父金栗四三の生い立ちをまとめました


金栗四三の生い立ち



明治24年(1891)熊本県に生まれ、小学校の頃は往復12kmの距離を毎日走って通学

東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学し。

校長の嘉納治五郎は、全生徒にスポーツを推奨しました。

校内の長距離走で1年生の頃から好成績を残し、2年生になると金栗の敵は校内にいないというほどの速さで優勝しました。

1911年にオリンピックのマラソン国内予選に出場し、2時間32分45秒というタイムで優勝。

これは、なんと当時の世界記録を27分も更新した大記録でした。

当時の日本はオリンピックに関心を持つ人がほとんどおらず、旅費などは自己負担だったため、金栗は経済的余裕がなく辞退しようとしましたが、同級生や後援会などからの寄付により、ストックホルム大会に参加することができました。


消えたマラソン選手と言われたわけ



1912年7月14日

マラソン競技当日、ストックホルムの気温が30度を超えていました。

金栗はスタートで出遅れましたが、17位まで順位をあげました。

しかし、折り返し地点をすぎると熱中症になり、コースを外れて森の中で倒れてしまいました。

意識を失った金栗は近所の農家の人に介抱され、目を覚ましたのは翌日でした。

このマラソンは参加者68人の打ち34人が途中棄権し、死者も出た過酷なレースでした。

金栗は消えた日本人選手として、現地で後々まで話題になりました。


マラソンの普及に貢献



オリンピックで結果を残せませんでしたが、これにめげませんでした。

日本国内では、無敵でしたが、世界には自分が勝てない相手が大勢いることを知り、帰国後するに勝つための努力をはじめます。

しかし、年齢的にもピークであった4年後のベルリンオリンピックは戦争により中止となってしまいました。

1919年(大正8年)には下関-東京間1200kmを20日間で走破、1920年には現在の箱根駅伝を企画し成功させました。

1920年アントワープオリンピックでは16位、33歳で出場した1924年のパリオリンピックでは32km過ぎで途中棄権しました。

ですが、この時の金栗に挫折感はなくやり切ったという達成感すらありました。

このレース後、引退し、次の世代にバトンタッチすることにしたのです。

金栗は戦後もマラソンや駅伝の普及のために尽力し、1953年(昭和28年)アメリカのボストンマラソン大会の監督となり、山田敬蔵選手が世界記録で優勝しました。